当塾の今年度の受験がすべて終了した。
生徒たちが合格を掴み取った学校の一覧はこちらをご覧いただくとして、指導における思考の備忘録として、今年度の受験について総括しておきたい。
まず出揃った結果として、全員が志望通りとはならなかった。多くの受験生が、自分の限界レベルギリギリのところを狙っての戦い。「必勝を期す」とはとても言えない。その中で、各自が「自分が置かれた状況でできる目一杯」は出せたのではないかとは思う。第一志望への進学が叶った者、不本意な結果に終わった者、それぞれに結果は受け入れるしかない。
塾として総合的に見れば、2年連続のMARCHや獨國武の複数合格、高校受験も中学受験も近隣の手堅いところをしっかり押さえた、という点では悪くはない。当塾開校の入塾第一号の生徒(一番指導時間が長い)がおおむね良好な結果で大学受験を終えられた、というのも良かった。大学進学には弱い地域(これは客観的なデータが出ている)を少しでも強くする、という意味で、道半ばではあるが上々、と言えるかもしれない。
だが、受験は数ではない。涙を呑んだ受験生もいるのが現実だ。
今は悔しさでいっぱいだろう。めいっぱい悔しがっていい。頑張った分だけ、悔しがる資格がある。
卒業式を終えたら、少しずつ前を向き始めていけばいい。ソメイヨシノの開きに合わせて、気持ちを少しずつ前に開いていけばいい。そうすれば新たな一歩が刻めるはずだ。
どこに進むか、よりも、何を為すか。
幸いに第一志望に進む者は胸に刻んで邁進してほしいし、無念な結果になってしまった者は励みにして前に進んでほしい。
当塾は「合格させる」という文言を発しないし、保護者や生徒にも私がそういう言葉を発することはない。
受験に対しては、「戦える力をつける」「本番で力を発揮できるよう鍛える」のがコンセプト。自分の限界ラインを伸ばしていく、足りないところを埋めていく。受験は生徒自身の力で乗り越えるべきものであって、家族がそれを支え、塾がさらに外側から支える、というイメージでうちは存在している。
受験指導をする身として幾ばくか、生徒の人生に踏み込ませてもらっているが、分を弁えてはいるつもりだ。よく「合格は生徒の手柄、不合格は塾の責任」という心持ちが語られるが、私は「合格も不合格もあなた自身のもの」と生徒に言う。無論、ずっと人生を共にしている保護者のものでもある。
結果によって生徒の人生は大なり小なり変わる。家族の人生も同様だ。その責任は重大で、それは自身で飲み込むしかないものだ。私のような他人が、その重みの責任を取るなどという軽率なことは言えやしない。命を削って指導に当たってさえも、言う資格は持ち得ないのだと最近は痛感することしきりである。
受験というものは、終わるまでは全身全霊を傾けるべき巨大な壁であるが、終えてしまえば長い人生における通過点のひとつに過ぎなくなる。いずれの結果であれ、自らの中で消化して、前に進むことが肝要。
というのが建前ではあるが、実際問題、私の心の中は穏やかではない。「合格させる」「不合格にさせてしまう」という気持ちは微塵もないようでやはり心のどこかにはそういう傲慢さを持っているのだろう。まだまだ未熟だ。
「あの時ああしておけば」「もっとこうできたのではないか」という反省点が次々と押し寄せてくる。その場では最善と思って指導を入れていても、あとから振り返れば「さらに良い指導」が思いつくものだ。これは生徒自身もそうであろうし、保護者の方もそうであろうと思う。「あの時サボらずに真面目に単語のひとつも覚えておけば」という悔恨、「放っておかずに早いうちから英語を始めさせておくべきだった」という後悔。
今になってそういう思いが去来するのは当然のことだ。人間は成長し続ける。成長した「今」の目線で過去を見れば、判断が稚拙であった、今ならもっとよくできる、という思いが出てくるのは必然。
だが、過去は変わらない。
その思いを胸に抱いて、未来に活かしていくしかない。次の受験があるのであれば、そこでリベンジを期せるように反省点を炙り出して努力を重ねる。受験という機会がなくとも、人生は試練の連続。反省を活かすチャンスはいくらでも出てくる。
私の気持ちで言えば、今回の受験が不本意な結果に終わってしまった生徒に対しての指導は、それが中学受験や高校受験でまだ次の機会が与えられるのであれば、その生徒に対して出来うる限りの還元をしていくし、そのチャンスがなければ次世代の受験生たちに還元していくしかない。それは第一志望に合格し、意気揚々としている生徒に対しての指導でも同様で、結果が出ても反省すべき点は数多い。
およそ指導に完璧というものはなく、完成形というものもない。だが、若者の将来の一端を担う以上、常にその完璧を目指していかなければならない。それが最低限の矜持だと思うわけだ。私も不惑を迎えようというタイミングで、その気持ちは年々強くなっている。
少しだけ具体的に反芻してみる。これはもうほとんど全学年の生徒の課題だが、「語彙・計算」をどこまでしっかり詰めるか、というのが一番だ。語彙は国語的なものはもちろん、英単語も同様だ。
国語でいえば、まず漢字の読み書きに不自由している生徒が非常に多い。先ほど出した「反芻」、中学生で読めないのは分かるが、大学受験をする予定の高校生(ましてや文系)で読めない・意味が分からないと言われては困るのだ。
漢字の習得は、語彙力の増強とイコールにならなければ大きな意味を持たない。そして習得には、小学校時代の「学習方法」と「日常使用の習慣付け」が必要不可欠。中学生になって怠惰が拡大した精神でどうにかしようと試みても、ほとんど不可能に近い。そして、この2点を塾で十二分に指導できているのかというと、そうもいかないのが実情。意識が高まってきた受験生のように、勉強の総量がある程度確保できる生徒であれば多少なりとも手を入れることはできたが、そういう時期には語彙をひとつひとつインプットする余裕はないことがほとんどで(もう直前の鉄火場なことが多いので)、非常に痛い。
計算、これはかなり鬼門。新規の問い合わせがあった場合、多くの保護者は「計算はできる」と言う。だが、実際見てみると、「確かに計算はできている」と思えるのは全体の1%くらいで、ほとんどの生徒は計算力そのものに課題がある。「全部正解できているから計算はできている」と考えるのが普通であろうが、プロから見ると穴は見えるものだ。実際、そこのところの鍛えは工夫を凝らしても退屈になりやすく、土台が固まる前に飽きるので、実は自力で固めるのは簡単ではない。コツコツと努力を一定期間続ける必要があるし、穴に気づきにくいというのも相まって、計算力のなさが露骨に出てくる頃には改善に相当の時間を必要とするようになっている。
英単語は言わずもがなだが、「小学校で覚えているべき」とされている単語が多すぎる。いや、実際は多すぎることはないのだが、それでも英検で言えば4級くらいの語彙力は要求されている気がする(実際は5級+αくらいと見ているが)。当然だが、英会話や塾での英語など、なにか外部での学習を入れていないとそんな語彙力を持って中学校に入るわけはなく、中1の最初でbe動詞・一般動詞・助動詞のコンボで文章を読まされ、小学校の復習と称して日常的な名詞がどかっと押し寄せてきて、もう最初からクライマックスになっている。こういう状態なので、「英語が苦手な中学生」がどこからどう入るか、というのは昔に比べてかなり辛いものになっている。アルファベットとヘボン式ローマ字を整えて、身の回りの単語を絵と照合して覚えて、というところから入ったとして、それが「中学校に入る前段階」なのもなかなかモチベーションを上げづらい要因だ。
小中学生の多くが抱える課題のごく一部を述べたが、高校生はもっと深刻である。漢字の読み書きは当然できるもの、というのが大学受験のスタートであるが、中学レベルの読みで苦戦するというのはよくある話。高校入学時に買わされるターゲット1900などの英単語帳、これは中学までに学習する2000語あまりの英単語の多くがすでに分かる状態、が使用し始められる目安だ。千葉県の公立入試でいえば、60〜70点くらいの得点力では厳しいだろう。その中で、首都圏の私大は5年前と比べてもだいぶ変容していて、高2終わりに英検準1級を確保しているのが難関大合格に向けての目安のひとつだ(MARCHくらいを想定されたい)。ちまちまとターゲットをやっている余裕もないのに、ターゲットで苦戦する高校生が多いという現実。
(一応言っておくと、近隣高校の多くがターゲット1900を生徒にやらせているということであって、私が渡すとすればターゲットはほとんど選択肢にない)
こうした状況を打破していかなければ、塾としても未来はないし、今年これで散々苦労した受験生たちにも失礼だろう。良くも悪くも、経験してきたことを前進に向けて活かしていかなければならない。そこで当塾としては通い放題コースの内容を大幅に改定して、この目に見える課題の解決を促進しようとしている。
受験が終わり、高校の卒業式シーズン、中学校も来週には卒業というタイミングで雪予報が出るほどの寒風吹き荒ぶ天候は、私の心象が具現化されたのだろうかと思うほど。ひとまず1年が終わりほっとする気持ちはありつつ、決して晴れ渡ってはいない。
今までの塾講師人生において、相応の期間指導してきた生徒で、本命に合格できなかった生徒は全員覚えている。彼ら彼女らは立派に社会に出ていることと思う。過去は過去、なにも重く考える必要はないのかもしれないが、それでもなにか「重み」を背負う。責任の取れない他人の人生に踏み込む、ましてや前途のある若者の未来に踏み込むという点が、この「重み」なのではないかと思う。感じる必要のないかもしれない「重み」だが、これを感じなくなったら私は引退だろう。とても若者の未来に関わる資格はなくなるのだと思わざるを得ない。今年もまた「重み」が加わったように感じるから、来年度もまた、今以上の自分をもって指導の場に立とうと思う。
塾のブログとして適切な内容かというと、とてもそうとは思えないのだが、うちのような個人塾は私という人間そのものが問われる。これくらいはいいだろう。
私が敬愛する中国の詩人李白の『将進酒』という詩の中で、好きなフレーズがある。
天生我材必有用
天が私のような才能をこの世に生じさせたからには、必ず用いられる日が来よう。
高校受験こそ安牌を切ったが(親には多大な迷惑をかけた)、大学受験は世間的目線では失敗、その後も決して順風満帆にいかなかった、昭和的な見方をすればいわゆる「失敗」とまで揶揄されるであろう私の人生は、やはり挫折が多く、精神的にも辛い日の方が多かったかもしれない。その中で、李白の詩に救われた部分は多い。
この詩に出会えたのは、本命に落ちて進学した大学だからこそであるし、それが人生何度も救いになったのだから、人生は分からないものである。特別な才能がない私でも、なにかこの世の端っこで誰かの役に立つことができればそれで十分。そう思わせてくれる。
進んだ先には必ず「なにか」がある。それを楽しむくらいの心持ちで、前に進もう。