教えません

極力「教える」ことをしない寺子屋はじめとかいう塾。そりゃあ初見の新規導入単元ではちょっとだけ教えることもあるが、基本的には教科的なものは何も教えない。

教えたほうが楽やな、と思うことは1日の中で10000000000万回くらいあるが、何が生徒のためになるのかを考えた結果、どれだけ「教えるのを我慢するか」というところにフォーカスしているのが当塾の指導だ。

鉛筆の持ち方、座りの姿勢、左手の添え方、視線の移動、丸つけの仕方、「仕分け作業」からの本来的な勉強の取り組み方などは教える。教えるというよりもしつこく言い続ける。

カリキュラムを作り、何を勉強するのかというところから用意をする。生徒はそれに沿って学習を進めていく。最初の段階では、指示通りに学習を行えない生徒もいる。まずは「やれと言われたものをやる」からスタートし、半年くらい続けていると何故か「やれと言われなくても塾に来たら勝手にやる」状態になる生徒が出てくる。周りが黙々と勉強するので、集中力が不足している生徒、勉強が嫌いで手を付けたがらない生徒も、徐々に「とりあえずやるか」という感じから行動がスタートし、取り組みの質が少しずつ高まってくる。

塾長はそういう流れの中で、適宜、適当な介入をしていく。雑談を投げることもあるし、解いているものにツッコミを入れて説明させることもある。視線を感じると手が動かなくなる生徒に対しては、視線を投げているようには感じさせないように見守って、ここぞというタイミングで働きかける。

高い成績を取ってくる生徒でも、その勉強の姿勢、あり方はボロボロであることが多々。ボロボロなものの中でも光るものを極力伸ばし、ダメだなぁ…と思うところは徐々に整えていく。一気にやってはやる気が失せる。その匙加減が塾長の指導技術の一端である。

居眠りに怒ることも基本的にはない。そもそも怒って起きるのであれば怒ってもいいのだが、たいていは夜中の睡眠状態が良くなかったり、まだ成長途上で体力が足りない中で朝の学校から夜の塾まで体力が続かなかったりということもある。むしろその中でも頑張ろうとして来ているのだから、うまいことやれるように骨を折るのが私の仕事だ。

勉強は特別なものではない。一生続いていくものなのだから、無理をして生活の中に存在させるのではなく、自然に生きる中での一部にしていかないといけない。塾に通うという点ですでに不自然さがあると私は思っているのだが、元々ないものを血肉にするには、まず最初は不自然で違和感を持ってしまうものを差し挟むところから始めるしかない。何年もの指導を通して、勉強することそのもの(物理的にも精神的にも)を日々生きる中に溶け込ませていく一助にはなれるのではないか、と思う次第だ。

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