高校生に古典を指導する身として非常に恐縮なのだが、古文単語帳を使う学習は好みではない。どう考えても時間が足りない高校生にとっては効率的に学習できる素材、なのかもしれないが、正直扱いが難しいなと思う。無論、私の本領は個別指導なので、生徒自身の肌に合う・合わないの感覚を大切にしながら、使わなかったり、逆に積極的に活用したりしているのは言うまでもない。
以下は私が個人的に考えていることである。
現代文でもそうだし、科目を限らなくてもすべてに言えることだと思うのだが、言葉の「落とし込み」が足りないのではないか、真に指導すべきはそこなのではないか、という危機意識が自分の内に年々高まってきている。
文章を論理的に読む、というのは当たり前の話であって、それはみんな指導を受けているし、およそ指導する立場の人間であれば上手かどうかの差はあれどみなやっていることだと思う。ただ、そもそもそれ以前のもっと根底のところに、技術では覆しようのない何か、があると私は睨んでいて、実際にそこに手を突っ込んでいったこともあり、今の指導の根幹を形成しつつある。
それが、言葉の「落とし込み」、評論的に言えば「言葉の身体化」あたりではないかなと思うのだ。
例を出そう。
「アイデンティティ」を「自己同一性」と答えるのは簡単である。では「自己同一性」とは?辞書的な説明ができる高校生はいるだろう。ではあなたにとってのそれは?目の前の他者にとってのそれは?歴史の教科書に出てくるこの人物のそれは?と、個の中に深く深く入っていった時にどうか。そこまで入って自らにその言葉を重ねていくこと・融かしていくこと、これが理解の先、体得に至る道なのではないだろうか。
単語帳やキーワード集で勉強してもよいし、辞書を引いて読んで勉強してもよい。それらの手段から入って、自分の中に「落とし込む」というところまでできているかどうかに意識を払いたい。
暗記ひとつでも、「落とし込み」をしているのか、表面をなぞっただけの「知識」に止まるのかで大きく違ってくる。
さて、これが読解となるとどうか。初めて読む文章を自分に「落とし込む」にはどうしたらいいか。
実はこれを意図せずに自然にやっている人がいる。そういう人は国語の点数がいいのだが、「落とし込み」のレベルによって、どこかで行き詰まる。それが中学段階かもしれないし、高校段階かもしれない。大学受験まではサクッといけても大学の教科書を読む段階で詰まるかもしれない。いずれにせよ、学問を進めていけば無意識の「落とし込み」はどこかで詰まる。
言葉を「落とし込む」ことに意識的になることによって、さらに世界を広げる・深めることが可能なのではないかと思うのである。
では、言葉を自らの中に「落とし込む」にはどうしたらよいのだろうか。(つづく?)